サンタクロースに関する一考察

アレは自分が3歳くらいで
サンタクロースだのなんだのってのが分かるようになった頃
まあ、多くの子供がするように
親にサンタクロースの実在性に関する質問をしたわけで
で、我が親の答えというのが
『サンタクロースってのは各家の親がプレゼントをあげているだよ』
そう言いきったのでありまして
えぇ、3歳の子供に対してキッパリと
そんな訳でサンタクロースをいつまで信じていたか?的な質問に関しては
人生においてサンタクロースの存在に関して信じた事がなかった
そう言うしかない子供として成長してきました



で、今、32歳の自分はというと
サンタクロースの存在ってのは
神様の存在と似た様なものだと思っております
神様ってのはある種、思考のブラックボックス化である
自分は常々そう思っております
本当のところは神様なんていないかも知れません
この世界の一つ一つの事象は徐々にではありますが
科学の名のもと、そのルールが解明されてきてはいます
うん、まあ、知れば知るほど
我々はまだ何も知らない、ということが分かるだけなんですが
ただ、パソコンのCPUやOSがどのようなルールのもと動いているか知らずとも
そこをブラックボックス化して効率良く運用出来るように
その全てのルールについて我々は
神の名のもと、思考のブラックボックス化を行い
効率良く生活しているわけでありまして
で、サンタクロースっての存在ってのも
そんな思考のブラックボックス化なんじゃないかなー
そう思うわけで



クリスマスってのは
神の子、イエズス・キリストが降臨された日
まあ、言うならば地上に奇跡が起きた日なわけで
神の子が生まれるくらいの奇跡の日なんだから
その奇跡のお裾分けをする
要するに世の中全体をハッピーにするような
そんなシステム
それがサンタクロースなんじゃないかなーと
そんなことを考えたわけです
そう、そのおすそ分けシステムの詳細は難しいからブラックボックス化しちゃって
で、みんなでハッピーになろう、と
みんなにハッピーを配ろう、と
そういう存在
それがサンタクロースだ、と



何でこんなことを考えたってのは
5年前の今日くらいに観たある演劇
タイトルは『34丁目の奇跡
あの話でクリス・クリングルがスーザンにあげたものは
お父さんでもお母さんの幸せでも大きな家でもなく
実は幸せなんだよ
その『幸せ』というもののプレゼントが
回りまわって彼女の欲しがっていた
お父さん、お母さんの幸せ、そして大きな家になっただけで
その『幸せ』を配達するシステムがあのおっさんだっただけ
それをフッと思い出したからで



アレは劇だからクリス・クリングルは
我々がイメージするサンタクロースらしいサンタクロースでなきゃいけなかった
デフォルメする必要があった
だからあんな姿形であったけど
普通に生活している分にはあの姿形に必然性はない
そう、だから別にトナカイだの赤い服だのヒゲだの
そんなのはどうでもいいのです
そんなのはあくまで雰囲気造りに過ぎなくて
サンタクロースとして重要なことは
詳しい事はブラックボックスでよく分からないけど
クリスマスという奇跡の日に
世の中に『幸せ』を配達するシステムであること
そこの部分なのである、と



そう考えれば
あの松任谷由実の名曲『恋人がサンタクロース
あの歌詞は至って正解なのです
そう、その子にとって『幸せ』を運んできてくれる『彼』こそ
正にサンタクロースなのです
別に恋人がいない人間にはサンタはこない、ではなく
そういう人には恋人がサンタ
そうじゃない人はそうじゃない人で
他にサンタはいるんです…多分



そしてBuono!のWinter Storyの歌詞にある
『サンタクロースは ホントにいるんだ』
『それはキミだったり ボクだったり』
これも相手から『幸せ』を配達してもらい
また、自分が『幸せ』を配達する
だから相手も自分もサンタクロースなんだろう
そう、サンタクロースなんて姿形
それどころか性別とかそんなことすらどうでもいい
それは一人なんかじゃなくて
たくさん、そこら中にいるもんなんだなあ、と
そんなことを思ったわけで



そう考えると、自分は多分
誰かにサンタになってもらっているんだろうけど
自分が誰かのサンタになったかどうか
それは甚だ疑問なわけで
そう思うと来年は誰かのサンタになれるといいなあ
そう思ったわけであります